太田龍の時事寸評特別号
公開日時:2009年02月18日 00時06分 更新日時:2009年02月19日 09時14分
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平成二十一年(二〇〇九年)二月十七日(火) 【フリッツ・スプリングマイヤーの論説 平成二十一年一月六日付】 生命のつながり ──フリッツ・スプリングマイヤー
第一師団は上首尾に闘い、死傷者の数も少ない。 さて、その答えだが、[私は平和主義者(パシフィスト)となる前、ウエスト・ポイント(米国陸軍士官学校)で戦争の技術に関する教育を受けた。だから、私は自らの答えが正しいことに自信がある。]
もし、ロシアの将軍であれば戦果をあげている師団、つまり、第一師団を補強するであろう。
ロシア人とアメリカ人とでは、どうして、このように違った考え方をするのであろうか。 私の説明の要点を示すための例として、まず、日本人とアメリカ人の考え方の違いを記してみようと思うが、さらに、その前に別の事を論じさせてほしい。
我々の行動(behaviours)は、我々の心構え(attitudes)の結果である。 これら、すべてを推進するエンジンは知覚された必要性である。四つ基本的な必要性がこのエンジンを動かしている。その基本的な必要性とは生命にとっての必要性、愛にとっての必要性、意味の重要性にとっての必要性、そして変化(variety)にとっての必要性である。
あなたが私の意見に同意しないとしても、まずは話を聞いてもらいたい。
ケルト人たちは個人に価値を置いた。 こうしたことやその他のつながりから、アメリカ人たちは、一人一人の個人にとって最も良いことは集団の必要性にとっても最も役に立つという考え方を進展させた。
日本では、その反対の考え方が真実を保っている。
米軍のグリーン・ベレー部隊(奇襲部隊)は一人の個人を救出するために部隊の全兵士を危険にさらすであろう。
そこで、我々は自分たちの思考をどの程度拡大すべきなのか。
かくして今、我々は自分たちのテーマ─結びつき─へと到達した。 (電子、陽子などの)亜原子の微粒子レベルでは、量子物理学(quantum physics)の微粒子は、どんなに遠く離れていても結びつくことができる。こうしたことは、ちょうど「スター・トレック」において「ビーム・ミー・アップ」と言われた時と同じように、様々な物がテレポーテーションできるという理論上の科学的可能性を浮上させる。
最近、異なった大陸の間に様々な結びつきが存在したという事実が様々な発見によって明らかにされている。 古代のピラミッド遺跡はエジプト、ヨーロッパ、アジア、中央及び北アメリカなどに存在する。さらに与那国島の近くで、一つのピラミッドが発見された。それは、すべてのピラミッドのうちで最古のものである可能性がある。 キリスト教の聖書は、他の古代の物語と同じく、古代において、高度に発達した科学技術を持つ、一つの政府の下に全世界が結びついていた、一つの時代が存在したと述べている。 最近オレゴン州で、一四〇〇年から一六〇〇年代の中国製の人工物が発見された。 一二〇〇年代から一三〇〇年代の間には、様々なキリスト教徒の集団がヨーロッパや中東から中国へ入国している。アラン人たち(Alani)、ネストリウス派、一二五〇年頃のカトリックのフランシスコ派の使節たち。中国の kianasu には、一三四二年の日付けがはいった墓碑がある。 それはラテン語で記されており、おそらくは貿易に従事していたベニスの家系と関連があった。この当時から中国への通商ルートを記したヨーロッパ製の案内書が存在した。 ハヤシダ・ケンゾウは、一二八一年に日本の徳島湾で沈没した、モンゴルのフビライ・ハンの船を調査した。この船は極めて低い品質の材料で建造されていた。
読者の皆さんも御存知のように、モンゴルの日本及びヨーロッパへの侵略は打ち砕かれた。 この時、中国人たちはヨーロッパのイルミナティのエリートたちに先進的な科学技術と正確な世界地図を与えた。レオナルド・ダ・ヴィンチのアイディアは中国のテクノロジーに基づくものなのだ! この本の題名は─「1434年=中国の大艦隊がイタリアを訪れ、ルネッサンスに点火した年」で著者はギャヴィン・メンジーズ(Gavin Menzies)である。(Harper Collins: 2008)
読者たちも、おそらく御承知のように、初期の明王朝(南京)では[中国語では靖何雪役と呼ばれる─ 訳注:日本では靖何のへん]権力闘争があった。この際、燕王朱棣(えんおうしゅてい)は父親である太祖洪武帝から王国を奪った。 朱棣は一四〇三年?一四二四年の間、王位にあった。この皇帝[訳注:永楽帝]は鄭和提督を世界大遠征に送り出した。鄭和は外洋航海用の二〇二〇艘の艦隊を保有していた。それらの船は一二八一年のモンゴルの船よりも、ずっと上質なものであった。 鄭和提督はイタリアまで遠征した。彼は世界(全世界)地図をヨーロッパ人たちに譲り渡した。ローマ、フィレンツェ、ヴェネチアの支配層は多くの科学技術を獲得した。これらの中にはギア、伝動チェーン、ポンプ、印刷術、大砲、さらにはパラシュートなどが含まれていた。他にも多くの中国人の発明品があり、そうしたものは、この新しい本に記されている。 後に朱棣(永楽帝)の孫であり、一四二六?一四三五年の間、王位にあった宣徳帝は永楽帝の遠征政策を継続した。イスラム教徒の提督の鄭和は一四三四年には中国のヨーロッパ大使であった。彼の墓は北京の北にある。 ヨーロッパ人たちへの贈り物として送られた、中国人女性奴隷の子孫たちがアドリア海の島々で現在でも生存していると信じられている。 ダルマチア[訳注:ボスニア=ヘルツェゴビナ西部のクロアチアとの国境付近の地域]人のDNA研究は(これらの)島の人々をアジアと関連づけている。Hvar 島の人々は、かなり高い比率で東アジアのDNAを有していた。 二〇〇八年にワーナー・ブラザーズ映画社は鄭和提督の映画を製作した。(それが公開されているのかどうかは私にはわからない。) 琉球諸島の人々は鄭和の遠征に参加していた。それ故、現代の日本人の先祖の人々が鄭和とともにヨーロッパへ行き、一四三四年にその他に居たという可能性も存在する。 ヨーロッパ人たちは一世紀にわたり、中国製の世界地図を基にして作成した世界地図を秘かに使用した後で、この一〇八年後に日本に到着した。
私は「一四三四年......」の本を推賞する。
それらは「つながり」を実例で明らかにする。
(週刊日本新聞編集部訳 平成二十一年二月九日)
【邦訳あり】
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