平成二十年(二〇〇八年)八月五日(火)
(第二千五百五回)
◯八月四日付け、ラミロ(ワンカール)のeメールの大意を、以下に紹介する。
(1)八月四日の午後、(ラミロを被告とする刑事事件、一審の)判決が
出された。これは或る種の驚きであった。
ラパス中央刑務所に、七年間投獄する、と。
(2)私の弁護士、その他みんなが判決の極度の苛酷さと、極度の不正義に
驚いて居る。
(3)法廷は、五人の判事団によって構成された。
職業的裁判官二人、(白人)。
市民の裁判官(三人)。
(4)まず、検察官が発言した。
次に、海賊版の発行販売者を弁護する弁護士。
次に、私の弁護士。
そして最後に私。
(5)私の発言が終ると、多くの人々が、私に拍手した。
私は或る種の自信を抱き、楽観的と成った。
(6)判事団は、合議した。
そして、裁判長は、二十分以内に判決文が作成される、と述べた。
(7)我々は、二時間以上待たされた。
私はこれは悪い兆しと見た。
(8)三人の市民裁判官は、百パーセント私の側にあり、彼らは私が無罪である
と確信していた。
(9)二人の白人職業的裁判官は、百パーセント私に敵対的であり、私の父親や
私自身の解放の思想を敵視して居た。
彼らは身分の低い市民裁判官を脅迫して、彼らの意思を強制した。
(10)八月八日、判決文を読み上げる儀式がなされる。
(11)私の弁護士によれば、我々は、高等裁判所に訴えることが出来る。
(12)チリ人の女性、ペルー人の友人、ボリビアの裁判官に気を付けろ、
と言うことわざがある。
(13)チョンチョコロ(Chonchocoro)の刑務所に送られるという最悪のケースは
まぬがれた。
この刑務所は荒涼とした無人の土地にあり、最大限の厳重な警備体制下、
そして、毎週のやうに、囚人たちは他の囚人によって殺されて居る。
(14)もし、ボリビアの植民地国家権力が私を投獄に持って行くことが出来る
としたら、それは、今年の末までに実行されるであろう。
(15)どう成るか成り行きを見やう。
(16)あなたの援助によって、私は、自分の自由を守るために戦うであろう。
◯以上の通りである。
◯ここのところずっと、筆者の心は、ラミロの事で一杯であり、あふれそうだ。
◯ラミロは、一九三九年生まれ。
父も母も、ボリビアインディオの独立革命運動のきわめて有名な指導者であった。
◯ラパスの中学に入り、
中学生の頃、ボリビア共産党の青年組織に入った。
◯ラパスの大学に入る頃には、
ボリビア共産党の極度の腐敗と反インディオ的本質を見抜いて、この党を脱退し、
◯ボリビアの山中でゲリラ戦争を開始したチェ・ゲバラの武装勢力に参加した。
◯ゲバラは戦死し、ラミロはボリビアの軍隊の捕虜と成り、
◯懲役三十年の刑で投獄された。
◯しかし、内外のラミロ釈放運動が起きて、
◯ボリビア政府は、ラミロをメキシコに追放した。
◯一九七〇年代、ラミロは、メキシコのインディオの村の小さな部屋に住み、
二冊の本をスペイン語で書いた。
◯一冊は、西洋全体との決裂はもちろんのこと、ゲバラを含む西洋の左翼との決裂の
宣言の書である。
◯二冊目が、
「インカのスペインに対する五百年の戦争」である。
◯このスペイン語の著作は、最初は、メキシコで出版され、次にボリビアで出版され、
スペインでも出版された。
◯その後の彼の経歴はここでは省略する。
◯一九八二年、東京でラミロと出会ったとき、
◯筆者は、ラミロの魂と筆者の魂がぴったりと符合して居ることを直観した。
◯それ以降、今日に至るまで、筆者の魂の一番深いところに、
彼ラミロは棲み続けている。
◯彼は今、「スピリットと宗教」と言う大著を書いて居る。
◯なんとしても彼が、この大著を完成出来るように。
◯そしてこの大著を、すぐにスペイン語で出版し、
◯次にそれを、英語で、そして日本語で出版できるように。
◯この仕事が、今、筆者にとって優先事項の第一位である。
◯この仕事への善意の協力者を歓迎する。
(了)
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