平成二十年(二〇〇八年)六月三日(火)
(第二千四百四十一回)
◯月刊「文藝春秋」二〇〇五年十一月号。
のちに、文春新書「あの戦争になぜ負けたのか」(2006年5月刊)、
第一部所収。
◯これは、以下の六名による座談会である。
(1)半藤一利
(2)保阪正康
(3)中西輝政(京大教授)
(4)戸高一成
(5)福田和也
(6)加藤陽子(東大助教授)
◯前掲書、九十一頁以下、
【半藤】私は昭和十一年の二・二六事件以降、中央の陸軍将官の
レベルがガタンと落ちたと思っています。統制派と皇道派の争い
の結果、二・二六事件の首謀側として皇道派の軍人が中央からはじ
き出されてしまいました。事件後に[陸軍に]残ったのは二流将官
ばかりで、明らかに能力的に落ちる人が多い。……
・・・・・・・・・・・・・・・
【保阪】二・二六事件後、「皇道派ないしその系列の者は、東京
から何キロ内には絶対に入れない」といわれましたね。こういっ
た粛軍人事も、全体として陸軍人事に歪みを引き起こしました。
【半藤】たとえば、スエーデンに赴任した小野寺信大佐は皇道派で
したが、実に優秀でした。彼は、スエーデンで懸命にヨーロッパの
情勢判断を行なって日本に的確な情報を送っている。
・・・・・・・・・・・・・・・
【中西】実は、皇道派の軍人のその後を見ていくと、よき情報将校
になっていたり、戦場でも戦士としては、すぐれた軍人が多かった。
山下奉文がその代表格です。
【半藤】柳川平助もそうです。
【加藤】皇道派のリーダー格だった荒木貞夫に対しては、ソビエト
に対して、「竹槍で戦うのだ」などと言ったとかで彼を軽蔑する
空気がありました。
しかし、小畑敏四郎など荒木周辺の皇道派系の軍人たちの思想を
洗っていくと、武力戦だけが戦争だと考えていない部分で、真の
意味での総力戦がわかっていたのではないかとも思います。
それこそイスラム教勢力の活用、宗教や思想の利用といったところ
にまで、目配りをしていました。皇道派系の軍人のある意味での
柔軟さがよくわかります。
【中西】逆に統制派的志向に傾き始めると、それまでは、幅広い能力
のある軍人だったのに、戦士としての質が急速に低下しているように
思います。……」
以下省略。
◯ここのところはきわめて重要である。
◯しかし、実は、「文藝春秋」二〇〇五年十一月号を読んだとき、
この部分は、読み落として居り、全く印象にも残っていない。
◯最近、山口富永先生に指摘されて、気付き、そしてこの座談会が、
後日、文春新書版に収録されたことも、知らなかった。
◯つまり、その頃の筆者には、
「皇道派」についての正しい知識と適切な関心が、ゼロに近かったのだ、
◯はなはだお粗末な次第である。
◯私のこの無知は、恐らくは「統制派」的言論思想に洗脳された
現代日本人に、共通するところのものであろう。
◯しかし、
この一月下旬、山口富永先生の存在を知り、その指導を受けて、
◯ 山口富永著「昭和史の真相」
山口富永著「二・二六事件の偽史を撃つ」
真崎勝次著「亡国の回想」
真崎勝次著「隠された真相」
◯など、一連の文献を入手して熟読した現在、
◯前記座談会での、半藤、保阪、中西、加藤などの人々の論、
◯こんなものは幼稚園児以下!!
であることを、すぐに私は了解した。
◯単に、幼稚、と言うのみでない。
◯「二・二六事件の首謀側としての皇道派の軍人」(半藤)
◯と言う規定。
◯これは、売国奴!!
以外の何物でもない。陸軍統制派のデマゴギーそのものであること
を知らなければならない。
(了)
|
Write a comment